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田島健一『ただならぬぽ』――「出来事」のはじまりの契機となる句を集めた本 ――を読んで  田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)は世界そのものである。   菜の花はこのまま出来事になるよ 田島健一  この本に収められている句一つ一つが全て、この「菜の花」のようなものだ。  これらの句は「意味がある」のでも「意味がない」のでもない。「意味ではない」 のだ。句一つ一つそれら自体が、読み手にとって読んだそのときに「出来事」として 読み手の中で「起こる」のだ。その経験は、句を「鑑賞する」という態度をゆるさな い。句の意味を読み解いたり安易に「景を描く」ことをゆるさない。句そのもののみ にぶち当たるという経験によって、世界が意味と無関係にただあることを感受させら れる。まさに菜の花がそこにあれば意味と関わりなくただある(そしてただうつくし い)ことを感受するように。  そしてこの世界はうつくしいだけでなく、不思議だ(そもそもうつくしいものは不 思議でもある)。俳句と呼ばれうる形をした日本語の詩が、こんなに世界が不思議で あることを表現できるのに感銘を受けた。たくさんの句を収録したことによってこの 一冊が、「出来事」の契機としての一句一句の集成としての「世界」になったと言え るだろう。 (この本に「句集」という形容がどこにも書かれていない――ただ一箇所、奥付を除 いて――のは重要だ。この本は「句(を)集(めたものを読むための本)」ではない のだ。この一冊の本が複数の句というたくさんの花が生えた不思議な世界の総体であ り、この本の中を駆け回ることで「出来事」が一つ一つ起こる事態を、世界の生起そ のものをリアルタイムで経験するのだ。)  この本の一句目の中に「しんじつ詩の長さ」、最後の句に「息のおわりのきれいな 詩」があることも、この本一冊まるまるが大きな息の長い生成の繰り返しの試み(そ れは世界全体が生成しようとすることと等しい)であることを示しているように思え る。  この本は、ふだん俳句を作らない(読まない)人たちにぜひ読んでもらいたい。 「あとがき」に、「書いたものは、常にかけがえのない出来事だったと言えるだろう か」とあるが、この本を読む者(一句一句を読む者)にとって「出来事」がはじまる 契機であることは間違いない。やはり「あとがき」にある「あらゆる人のはじまりで あることの困難さ」を打ち砕く、読み手の中ではじまることの契機に満ちあふれた世 界がこの本の中にある。 back to TOP