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「週刊俳句」 369号に寄稿した記事の転載です。 【句集を読む】 しかめ面ではない大人 長嶋有『春のお辞儀』を読む トオイダイスケ 表紙が黄色くて、大きすぎず小さすぎず、とてもかわいらしい本です(表紙は灰 色の版もある)。 長嶋有さんの句を句集でたくさん読んで抱いた強い印象は、 「大人が思い切り遊ぶことのよろこび」 がにじみ出ている、というものでした。  白玉や子供は空を飛べません 長嶋有  外灯や氷踏むときだけ黙る  手をふって歩く大人や花曇  寒星や楽しかったと先生言う  人間大砲に笑顔で入り夏  ワーイという三十代と薄紅葉  夏らしいなぞなぞを出す大人かな 子どもも遊ぶし、遊びに費やされる時間やエネルギーは大人よりも子どものほう が勝るかもしれない。けれども、大人になった者は、「大人」であると いう状 態を毎日毎日生きてきた者は、子どもが遊ぶよりもシビアに、かつ些細なことを 「遊ぶ」ことができる。 「空を飛ぶ」こと、氷を踏んでその靴越しの感触と割れる音を黙って真剣に味わ うこと、手を振って「歩く」こと、「楽しかった」と先生という立場に いなが ら心から口にすること、笑顔で空に打ち出され飛ばされる人になること、漫画や アニメや物語などで蓄積されてきた重みのある科白を心を込めて 自分の声で口 にすること、なぞなぞに夏の味わいを込めること。それらの全力な遊びの瞬間に 季節を感じること。 それらと俳句をつくることとが、長嶋さんの中ではすべて同じ真剣な遊びである のではないか、と感じました。 大人が遊ぶということが子どもが遊ぶことと異なる点は、真剣さと繊細さ、約束 を尊重することと破っていくこと、そういった意識を「噛みしめる」こ とがで きる、という点かもしれません。その意識が、あとがきの「歴史や文化を信じる のと疑うのは同時でなければいけない。」という言葉や、しおり のなかの「句 集を初めてめくる人のために」「句会をやってみよう!」の文章に表れていると 思いました。 長嶋さんの俳句は、取り上げる素材や語り方が今までの様々な俳句に対する批評 にもなっていますが、  エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン  宵闇や電話コードの爪大事  青嵐誘拐犯人のモシモシ  くすぐるのなしね寝るから春の花  (やっぱりさっき踏んだのは蝉だった) 同時に俳句という形式が持ちうる力に対する素直なよろこびの上で作られてもい ることも感じました。  くす玉の割られた後や秋の暮  目指せばもう始まっている花火かな  笛鳴って走るのやめた人に風  どの家も布団ばさみのバネ強し  うつぶせで開くノートの先に海 しかめ面ではない追求(もしくは追及、もしくは追究)としての、たのしい句集 でした。 back to TOP