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秋田(2)  ジュンサイ、という言葉を耳にするのはとても久しぶりだった。かおるさんのお母さ んから分けてもらった、秋田美人セットという名の定食の中の、小さな白い器に入った ぬめりのある茶色を帯びた緑色の小さな草は、うっすらと苦味があって、でもさわやか な後味だった。  ウィキペディアで調べてみると、かなり多くの地域でジュンサイは絶滅危惧種に指定 されているか、すでに絶滅していることが分かった。スイレン科で、写真を見ると蓮に とてもよく似ている。花は紫色で花びらも小さく、より地味な印象を受ける。  上野の不忍池や、鎌倉の鶴岡八幡宮の源平の池に、夏になるとぎっしり水面を埋め尽 くすように咲く蓮の花を思い出した。蓮の群れに近づくと、重なり合うように緑の円い 葉を茂らせ思い思いに首を伸ばし頭を出しているたくさんの紅や白の大きな花たちが、 むせかえるような湿り気となまめかしい匂いとともにこちらに迫ってくるようだった。  ライブ会場である千秋公園に向かう道を歩いていると、すぐに汗ばんできた。流れる 空気は涼しく風が時折強く吹きつけるが、日差しはまだ強い。大きな建物も混ざって立 ち並ぶ通りの左手に、お堀が見えてくる。幅は広く、緑色の水面は昼の高い日差しを浴 びて柔らかく光っている。  曲がり角に近づくと、水面よりも明るい緑色の草が水面を覆っていた。蓮だろうか。 もっと近寄って見てみると、心なしか小さい気がする。花もほとんど咲いていない。も う9月だから仕方ないかと思った。こんなに暑いけれど、確実に季節は秋に近づいてい るのだった。今こんなに晴れているのも秋田だけで、この強い風の正体は近畿地方をひ どくゆっくりと通り抜けようとしている台風の余波だったのかもしれない。  台風が来るという知らせはいつも非現実的に聞こえる。しかし発生から進路の予想、 実際に到達したエリアの情報が、テレビなどを通してこれほど逐一報告される現象もあ まりない気がする。この台風は時速10キロという話で、早歩きしてる人みたいだとか、 自転車で横を通ったら追い抜いてしまうな、などと自分たちは軽口を叩いていた。ほと んど何も知らされずにやってくる出来事ではないというだけで、そして自分が移動して きた場所にそれがやってきそうにないという状態にあるだけで、こんなに気が軽くなっ てしまうことに、釈然としない気持ちと罪悪のような感覚を覚えた。それにしても、 週末に特別なイベントやライブがあるとき、自分のいるあたりはたいてい大雨や嵐とい う悪天候になってきたものだけれど、この日は違った。強力な晴れ女と晴れ男が集まっ たのだろうか。違ったことを受け入れてただ楽しもう、と思った。  公園入り口の坂のふもとに、大きなパラソルの下に立つおばあさんを見つけた。おば あさんは別の知り合いとおぼしきおばあさんと談笑していた。  声をかけて、 200円を渡した。パラソルの下でおばあさんはアイスクリームを売って いるのだ。金属の円筒状の容器のふたを取ると、中には黄色とピンクの二色のアイスク リームが半々に入っていて、おばあさんはそれをヘラで掻き出して、コーンのうえに薄 く縦になすりつけていく。コーンを回しながら、それを何度となく手早く繰り返して、 手渡されたものを見ると、黄色とピンクのまだら模様の花がコーンの上に咲いていた。 それは蓮かスイレンか何かに似ていた。                    *  夜も更けて日付が変わる頃になって、街中の小さな店が立ち並ぶあたりの中の建物に 辿り着き、そこの二階でゆっくりとビールを飲んでいた。白や黒のシャツを着たスタッ フの人たちが大勢立ったり座ったりしていた。自分は奥の窓際の席に座ってそれを眺め ながら、ビールを飲みながら、すでにまどろみ始めていた。  草階さんがやってきて目の前の椅子に腰を下ろした。とてもくつろいでいるように見 える。あるいはすでに酔っているのかもしれなかった。昼間ライブが始まってすぐに歌 い始めた姿を思い出した。乾いた空気を感じさせるバンドの音と、その中で静かな言葉 を発していく様子は、荒涼とした感じを受けると同時にあの暑い空気の中にとても合っ ていた。  腹ごしらえも先に済ませたためか、すでにかなり眠くゆらゆらとした意識のなかで話 をした。というよりも、草階さんのテンポと声色を聞きながらたまに生返事をしてぼん やりしていたというほうが正しい。それはとても心地よい時間だった。  ジュンサイという言葉が会話の中に聞こえ始めた。ああ、あの、駅に着いたときに食 べた冷たくてぬめりがあっておいしかったやつだ、とぼんやり思い出していた。草階さ んは自分でジュンサイを採るようだ。たくさんのジュンサイが生える池にたらいのよう な船で漕ぎ出していって、いちばんおいしい芽のところ、ほんの少ししか取れない部分 を次々とたくさん採る様を、大きな手で手振りを交えながら話している。あまりのその ジュンサイ採りの才能に、その池の持主に、婿にこないか、と言われたらしい。  じゃあ来年はみんなでジュンサイ採りしようよ、というかおるさんか関口くんかの声 が聞こえた。そうしよう、と草階さんが言っている。それで、こうトオイくんが船で漕 いでいってね、と両手を水を掻く仕草をして動かしている。すると、草階さんはその両 手を真上にあげ、 大きな体をぐっと斜め後ろに反らせて、 「からの、どぼーん!!」 と叫んだ。  そこに今日最後にライブを終えた二人が店に入ってきた。場がふっと沸いて、和んだ。 本格的に打ち上げが始まる空気だ。  草階さんの、「からの、どぼーん!!」は何度か繰り返された。座っている自分たち の反対側にはベースやギターやピアノやベースがあって、ジャムセッションが始まって いる。聴いたことがある、自分でも何度となく演奏したことがある曲だ。"Chicken"だろ うか。とてもエレガントで親密な感じのチキンだ。とてもリラックスした気持ちいい音 だ。本格的に眠くなってきた。頭の中で、たらい船から角度をつけて、ゆっくりとジュ ンサイの生い茂るなまめかしいむせかえるような匂いのする池の水の中に、小さな体を 後ろ斜めにそらせながら、どぼーん、と落ちる自分の姿を想像した。冷たくて涼しくて、 気持ち良さそうだと思った。そして後頭部を後ろの窓にもたれさせて、目を閉じた。 back to TOP